ソロになってからソロコンDVDを事務所に届けに行った赤西くんの話

Love-tuneのメンバーの退所が決定し、時折あげられる赤西仁くんの名前をみて、赤西くんがジャニーズ事務所を退所してからジャニーズ事務所とどのような関係性を持っているのか知らない人が多いため、それを伝えるためにも、自分の忘備録としてもこのブログを書こうと思った。

 

 

前回、松田元太くんに落ちた話のブログで触れたのだが、私はジャニーズにハマって初めて担当という概念に当てはまったのが赤西くんだ。

 

しかし、好きになってから、脱退してから、退所してからも、彼からジャニーズという肩書きが消えても私の中では「元KAT-TUN赤西仁」というフィルターを外すことが出来なかった。

 

 

 

 

赤西くんが脱退したのが 2010年。

 

 

 

1月に主演映画「BANDAGE」が公開され、その中で組まれたLANDSというバンドでアルバムを出し、主題歌もそのバンドで担当。Mステにもソロで出演し、偶然一緒の回で出演した 親友山Pとも尊いトークを繰り広げた。

 

2月に日生劇場で行われた赤西くんのソロコンサート「友&仁」。少年倶楽部でもジャニーズJr.によって披露されたHey Girlはこのライブで生まれた。このコンサート中、お偉いさんに声をかけられ、アメリカで6月にソロコンサートを二日間開催することになった。

 

しかし、その年にKAT-TUNはツアーが決まっていた。その上、Going!のシングルの発売もあったが、赤西くんはアメリカでのソロコンサートのためツアーもシングルにも参加しなかった。

 

 

このことから、メディアは空港で撮ったアメリカに向かう赤西くんの写真と共に「赤西仁 脱退か」という記事をあげた。

 

しかし、メディアに反して赤西くんはちゃんと「脱退する気はありません」と言っていた。その時、ちゃんと彼はKAT-TUN赤西仁としてアメリカでソロコンサートをする気だった。

 

 

アメリカでのソロコンサートを無事に終えたあと、7月。

 

赤西くんはKAT-TUNを脱退することを決めた。

 

 

私は、あんなに固く脱退する気はないと言っていたのにそのような空気を作る要因となったメディアを本当に心の底から恨んだ。グループの仕事よりも個人の仕事をとったから当たり前だろという意見もあるだろうが、本人にはそんな意思はなかったし、事実じゃないことを大々的に報道するメディアには耐えられなかった。

 

 

理由は「方向性の違い」によるものだと伝えられた。

 

 

 

あの日の夜、ひたすら布団の中で涙が止まらなかったこと。

赤西仁担の母が地域の集まりから帰宅して私に脱退することを知らせてくれたときの部屋の景色も10年以上経った今も鮮明に覚えている。

 

 

しかし、その直後。

その年の秋に行われたシカゴ、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコ、ヒュートンの五大都市をめぐる「Yellow Gold Tour3010」では1万5千人を動員する。

 

その後もジェイソン・デルーロとコラボしたTEST DRIVEや、ハリウッド映画のオーディションの合格など ソロになった後も活動は海外が中心だったものの、「拠点は日本」と言い続けてくれる彼を信じて応援し続けていた。

 

しかし、黒木メイサさんとの結婚を事務所に結婚後に報告したことによりツアーの中止、主演ドラマの降板(噂ではGTOだと言われている)など 全面的に長期間干されることとなる。

しかも、赤ちゃんができていた。

 

しかし、一番知っていてほしいのに世間に知られていないが「できちゃった婚」ではなく「できちゃってました婚」だ。

赤ちゃんができたから結婚を決めたのではなく、結婚が決まった後に赤ちゃんの存在が判明した。このことに関しては、ライブトークでも本人の口から告げられている。

 

でも、干されることが耐えられなくてその年にデビューを控えていたKis-My-Ft2を掛け持ちし始めたのもこの時だ。

 

 

 

そして、1年干されてようやく活動再開の一歩となったのが「HEY WHAT'S UP?」。

嬉しすぎて中学生であったにも関わらず全形態購入し、本当に世界観も素晴らしいPVを自分のSNSのトプ画にしたり、PVて着ていたTシャツを買ったり、街中でもそのTシャツを着る人を何人も見た。

 

しかし、活動再開した次の年の冬。

契約満了により赤西くんが「方向性の違い」によりジャニーズ事務所を退所した。

 

 

私は、ショックは受けなかった。

それまでに 留学、休止、脱退、結婚、休止と経験していたからもあるが、ソロ活動が始まった後から彼が創り出すものが アイドルではなくアーティストとしてのものであるとは感じていたし、明らかに方向性が違うのは理解できた。

 

 

 

 

その後は、自らレーベルを作り、今では社長として活動している。

事務所在籍時代にレーベルとしての関係性だったWARNER MUSIC JAPANとも、業務提携と同等の立場での関係性になった。

 

 

世界で最もハンサムな顔にも毎年ランクイン。

 

中国やアジアなどの日本とは異なる規模での音楽の世界で賞を頂いた。

 

 

東京ガールズコレクションに出演したり、ガールズアワードにも出演したり、山田孝之さんとJINTAKAというコンビを組んでCDもPVも出した。これらの活動は、WSでも普通に取り上げられ、個人的にはスッキリなど日テレでちゃんと取り上げてくれていた印象がある。

 

 

赤西くんが、ソロになってから一番変わったと思っていることは、彼がファンに直接言葉を投げかけられる場が多くできたことだ。

 

 

 

よく、グループ在籍時代は歌番組の時も無表情で他メンバーの話を聞いていて愛想が悪い不仲説と一方的に言われていたが、幼稚園の先生体験や中丸くんのバンジージャンプ、消防士体験、トゥトゥトゥサークル、仁亀手繋ごうよ事件などの黄金企画が行われていたカートゥンKAT-TUNを見てから言ってほしい。

 

 

 

彼は、ソロになってから沢山の言葉をファンにくれている。

一貫して感じるのは、「信じてついてきてほしい」というメッセージだ。

赤西仁がこの言葉を発することは意味の重みがちがう。

 

ライブのトーク中に作詞をしてくれたり、恒例のトイレタイム(MCが始まるといつもマネージャーにトークを回さして、自分はトイレに行く)や、ブラホック外しのパイオニア、自分の子供に向けて作った歌「アイナルホウエ」

 

彼がする行動全てが愛に溢れている。

 

 

わたしが、ちゃんとKAT-TUNというフィルターを赤西くんから外すことができたのが、KAT-TUNが充電期間をおえて、東京ドーム公演の発表がされた時だ。

 

赤西くんも通常通りツイッターもインスタもしていたし、彼から新しい動きがあったわけではないけど、KAT-TUNが新たに動き出すことから、KAT-TUNはもうKAT-TUNで、いまの赤西仁赤西仁であるとやっと、わたしの中で一つの存在を2つの存在として認識できるようになった。

 

 

赤西くんは、ライブトーク中、ためらいなくジャニーさんのお話やKAT-TUN、タッキー、中丸などのワードをSNSでも発する。

ソロコンサートのDVDが出た時も、赤西くん自らジャニーズ事務所に行き、ジャニーさんに渡してきたことをトーク中に伝えてくれている。

 

 

 

赤西仁くんの人柄だからとか、事務所の問題とかではなくて、赤西くんかソロ活動で自信を持って活動していて、満足するものをアーティストとして創り出しているからこのような事が可能なのではないだろうか。

 

私は彼を応援している中の一人で、彼のことを十分に知っているわけではないけど、アーティストとして素晴らしいことは胸を張って言えるし、だからこそ今でも多くのジャニーズJr.に歌われ続けているのだと思う。

 

 

 

 

よく、友人に言われる「赤西くんって今どこにいるの?」という言葉には、いや日本にいるよと答えてしまうのだが、世間的には世界に飛び立ったままの記憶で止まっている赤西仁なんだなと感じる。

 

しかし、テレビのオファーは来てるけど、スケジュールの都合でお断りしてると言っていたので、今後は世間にも目につく場所での活動も期待しつつある。

 

 

私は、ジャニーズ事務所を契約満了による対処後、世間には届きづらいかもしれないが、様々な場でアーティストとして活躍し、評価され、事務所にソロ活動の作品を自分の足で届けに行った赤西仁くんのことをもっと沢山の人に知ってほしいなと思う。